damegakusei's diary

21歳フリーターレンタルビデオ店でテキトーこいてる  コンテンツ、日々の生活

優しさの発露について

 本日、学生時代の飲み会があり楽しい時間を過ごすことができた。学生当時にも思ったが、無軌道にはしゃげる時間というのは人生の中でもかなり限られている。いわゆる青春を楽しんだわけで、各位には感謝している。

 

 本題。帰り道、風邪をひいており薬の副作用もあって今すぐ寝たい思いを抱えながら、つり革に掴まっていた。運よく途中駅で目の前の席が空き15分ほど夢の世界を堪能できそうだったのが、たまたま目に入る位置に松葉杖をついた人が見えた。

彼の肩を叩き席があると告げ、一言お礼を言ってもらった。その後、予想外にも隣に立っていた別の方が私に

「いいですねぇ」

と言ってくれたのだ。

 少し話がそれるが、布施の心というのをご存じだろうか。出典は忘れたが要するに、その善意は感謝の見返りを求めているのかということだ。

 ここで私の頭に、このお布施の心問題が浮かび回答に逡巡した。自分のしたことは良いことなのか? そもそも何故私は席を譲ったのか? リアルfavをくれた人はこんな事を聞きたかったのではないと思うが、私はこの2つの疑問に答えをだす必要性を感じた。

 前者にはすぐ答えが出たが、後者は考えがまとまらなかった。

 だから、私はまず前者に回答を出した。

 「いいえ、大したことでは」 そう、大して良いことでもない、当たり前のことだ。そして後者について考え結論を出した。

 「たまたま、目に入る範囲だったからです」 私は日ごろから思う、我々は世界の裏側の殺人に悲しみを覚えない。世界のあらゆる問題に無関心というフィルターを掛けている。

 しかし、今日はすぐ目の前に助けを求めるひとがいたから声を掛けただけだ。助けを求める人に対して、適切な援助が出来る事はとても稀だと思う。募金箱にお金を入れるより、こうした行為の方が良心を満たせる。感謝の言葉などなくても、自己満足で足る。

 私は私の身勝手な良心を満たすチャンスを利用したまでだ。

 

 今日のこの一連出来事で、一番良い人物はリアルfavをくれた人だと思う。多分私のように考え込む人は少なく、素直に喜びを感じる人が多いと思う。そして、この喜びは身勝手なものでもいいと思う。

 上述のお布施の心では、感謝の言葉を期待した僧侶は己の未熟さに気が付き修行をやりなおしたという。けれども、皆が皆修行僧ではない。煩悩はなくせない。少しでも優しさを発揮できるようになれば良いと思う。